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きものコラム

(きもの雑学)きものの模様について:様々な模様

「デザインとしての美しさ、ユニークさを表現した文字の模様」

 

平安時代に始まる絵画様式のひとつに、「葦手絵」というものがありますが、これは風景や物語の場面などを描いた絵の中に、画題と関連する詩歌や物語、経文の文字を隠すように配したもので、鑑賞者はこれを見つけ、絵としての美しさと謎解きの両方を楽しみます。そこに見られる文字及びその書体を「葦手」といい、文字をモチーフとする工芸意匠は、まず鎌倉時代に漆工や金工に現れました。

 

 染織物に文字模様が見られるようになったのは、これらよりはるかに後の江戸時代初期でした。やがて十七世紀末以降、詩歌の一部または全部を漢字や平仮名、あるいは片仮名で表し、これを散らした意匠が小袖に大流行しました。

 ただし、文字だけが配されることはまれで、多くは詩歌の内容を暗示する具体的なモチーフとともにきものの肩や袖、胸に散らされました。それは見るものに着る人の文学的教養を誇示すると同時に、意匠としての文字の美しさ、面白さをも見せようとするものになりました。

 主題とされる詩歌は、その初期においては漢詩の割合が大きく、次第に和歌の割合が増して、やがて十八世紀の後半から十九世紀にかけてほとんどが和歌になっていきました。

 

 文字模様には、これらとは別に、文字を具体的なモチーフの代わりとして表現するものもあります。かすみ網の上に「鳥」の字を散らして、網にかかった鳥を表した模様などはその典型です。これらは十七世紀から十八世紀にかけての町人女性たちの小袖に多く見られました。

 

 

「「粋」の美意識の象徴、町人好みの縞・格子模様」

 

 江戸時代後期の町方のファッションを語るとき、裾模様や小紋とともに、忘れてはならないのが、きものの縞と格子の模様です。当時の縞や格子の流行は、いわゆる「粋」の美意識を意識する町人の好みを、強く反映して生じたものであると考えられています。

 

 「しま」()という言葉の由来については、江戸時代後期の有識故実書『貞丈雑記』(伊勢貞丈著・天保十四年〈一八四三〉)に、この模様がはじめ南方の島で織り出されたため、そう呼ばれたという説が記されています。「しま()」に代わって「縞」の字が当てられるようになった経緯は判然としていません。ですが、この頃に「しま」という言葉が竪縞、横縞、格子の総称として認識されていたことは明らかになっています。

 江戸時代の前期から中期にかけて、男性の衣服には縞がわずかに見られるものの、女性の衣服では草花や器物をモチーフとする模様が主流になっていました。中期の後半になると、武家女性や富裕な町人女性が引き続きこうした模様を使用したのに対し、中流の町人女性や庶民の間では、縞や格子が流行しました。

 

 そのきっかけは、茶道の世界で名物裂として珍重された舶来の縞織物です。名物裂のうち、「間道」「漢東」「広東」などと記され、「かんとう」と呼ばれたものは、縞・格子模様を織った絹や木綿の織物で、その多くが竪縞になっていました。

 江戸時代には、縞の流行とともにさまざまな縞・格子裂が輸入されましたが、やがて需要が増大し、これらが国産化されるようになりました。

 日本各地で縞織物の生産が始まると、その太さや配列・配色に自分の好みを反映させて、きものや装身具に用いました。

 

 縞、特に竪縞をいち早くきものに取り入れたのは、当時流行の先端を行く遊女や役者たちであったといわれています。しかし、主に木綿を素材とするこの時代の縞・格子のきものは、絹地で高価な模様染のきものとは異なり、一般の女性たちにとって容易に入手できるものでしたので、竪縞はあっという間に彼女たちの間へ広がっていきました。こうして縞と格子は染織品、特にきものの模様として重要な存在となり、その美意識は現在まで受け継がれていきました。

 

 「束帯や十二単から織り出された模様~平安時代の公家好み、有職模様~」

 

 有職故実の「有職(ゆうそく)」という言葉は、「有識(ゆうしき)」の「識」が「職」に変わったものである、といわれています。「有識」とは文字どおり「知識」のあること、もしくは博識であることをいいます。中世においては、和漢の歴史や故事一般、あるいは公家生活における儀式や作法、服飾・調度についての「知識を有する」ことを意味しました。

 社会が固定化し沈滞していた平安時代中期には、こうした知識の中でも特に叙任・典礼・儀式等について精通していることが、生活の中で重要性を持っていました。そうした状況のなかで、「知識」の「識」の代わりに「官職」の「職」を当て、「有職」と記されるようになったといわれています。

 それでは「有職模様」とはどのようなものを指すのでしょうか。前記の経緯から、広義に、公家の生活の中で用いられた模様全般を指すこともありますが、その中でも、織りで表された模様を指す場合が一般的になっています。またその伝統的な意匠を染めや刺繍などで表したものもこれに含められます。

 最も古典的な有職模様は、公家男子の束帯の袍や下襲・袙・単・表袴・冠などに見られる綾や紗の織り文、公家女子の女房装束(十二単)の唐衣・表着・袿・単などに見られる浮織物や綾の織り文でしょう。これら公家服飾における有職模様は、着る人の位階によって使用制限や家によっての違いがあり、また装束の種類ごとに慣用される模様を変えていました。

 

 「外国の伝統意匠、コプト模様・インカ模様」

 

 世界の古代染織の代表といえば、エジプトのコプト織と南米ペルーのインカ織があげられます。

 コプト織はエジプトの初期キリスト教徒であるコプト人によって、三世紀頃から一二、三世紀頃にわたって作られたものです。またインカ織は南アメリカのアンデス山脈の西側にあるペルー、北にあるエクアドル、南にあるボリビア一帯の古代文明の地で織られていたものです。ただしこれらは、インカ帝国(十五世紀に成立)が成立する以前に誕生していたものであることから、「プレ・インカの染織」と呼ばれていました。

 この二種類の染織品はいくつか共通点をもっています。まず、染織品のほとんどが当時の墳墓から発見され、また王侯貴族のものではなく、一般の人々が使用していたものと推測されることです。これらは衣料品のほか、壁掛けやカーテン、毛布、枕、袋などに使用されていました。現在残っているものは断片が多いのですが、衣類などはほぼ完形を残しているものもあり、当時の人々が貫頭衣を着ていたこともここからわかります。

 模様の特徴としては、コプトは裸像の人物図や舞踏図、ギリシャ神話をもとにしたもの、鳩や魚、十字などのキリスト教で表現されたモチーフなど多種多様になっています。一方、インカの模様は多くが幾何学模様ですが、動物や植物を表したものもあります。どちらも色彩は鮮やかで、初期には赤紫や褐色が目立ちますが、やがて黄、緑、藍など色数が増えて、賑やかになっていきました。

 これらのコプトやインカの染織は、私たち日本人にとっても魅力的で、昭和の初期にはこれらをモチーフにしたきものや帯が作られています。日本にはない独特の雰囲気が新鮮で、きものの楽しみを広げてくれました。

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