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着物大事典

【特集版】着物コラム

有名な武将の名がその地に残る京都観光スポット

京都名所特集と銘打ってご紹介するのは、京都にある神社仏閣の特徴や歴史についてです。細かくご紹介して、観光などの際に役立てていただきたいと考えております。第9弾の今回は将軍塚(しょうぐんつか)と五条大橋(ごじょうおおはし)、鞍馬寺(くらまでら)です。

 

●将軍塚

京都の夜景を一望の下に見ることができるスポットが、東山連峰のひとつ、華頂山上に建つ青蓮院飛び地境内の将軍塚です。ここから京都市内の大パノラマを一望できます。華頂山頂の駐車場にも市営展望台があるが、この展望台の眺めより将軍塚展望台の眺めのほうが素晴らしいという声が多くあります。

将軍塚のある大日堂は大日如来を祀ったお堂で、境内の北側と西側の二カ所に展望台があり、どちらの展望台からの眺めも見事というほかなく、とりわけ夜景の美しさは大人気となっています。将軍塚は平安時代につくられ、直径約20メートル、高さ約2.5メートルの塚です。ここには一不思議な言い伝えが残っています。国家に何か大事や異変が起こりそうになると、塚が大きく揺れるというのです。事実、『源平盛衰記』や『太平記』にも、塚が揺れ動いたという記録が残されています。何と、塚の下には、桓武天皇の命によって坂上田村麻呂の土像が埋められていて、それが国家の異変を感じ取ると、京都の人々に警告を発するといいます。坂上田村麻呂は、当時の平安京の人々の崇拝を一身に集めた英雄なのです。ではなぜ田村麻呂の土像がここに埋められているのでしょうか。

平安京を造った桓武天皇には、東北地方を支配下にするというなんとしても成し遂げたい野望がありました。東北には古代から朝廷の支配下に入らない人々が住んでいて「蝦夷」と呼ばれていました。そして大和政権の頃より蝦夷は朝廷に対し、たびたび反乱を起こしてきました。桓武天皇は、そんな蝦夷を征討しようとするのだが、蝦夷の首長アテルイは勇猛で朝廷軍は常に惨敗を喫していたのです。それでも蝦夷征討を諦めない天皇は、791年 (延暦10年)、大伴弟麻呂を征夷大将軍、副将軍に坂上田村麻呂を任命し、10万もの大軍を差し向けました。するとこの戦で田村麻呂が戦果をあげ、朝廷側はやっと勝利することができたのです。797年(延暦16年)には、田村麻呂が征夷大将軍に任じられ、再び蝦夷征討に向かい、ついにアテルイ率いる蝦夷軍を平定します。これを大いに喜んだ桓武天皇は、彼を昇進させ大納言としました。田村麻呂の土像をつくって都を守らせようと考えたのです。高さ2メートルの坂上田村麻呂の土像に兜と甲冑を着せ、鉄の弓矢と太刀を持たせて塚に埋めたといわれています。

●五条大橋・鞍馬寺

五条大橋は京都市内を流れる鴨川にかかり、下京区と東山区の境にあります。五条通の国道

1号線の一部です。平安時代末、この橋の上で牛若丸(源義経)と弁慶が出会ったといわれ、橋の西側のたもとには京人形風の牛若丸と弁慶の石像が建ち、道行く人を楽しませています。熱心な歴史好きの方も聖地巡礼で訪れるそうです。

乱暴者の僧であった武蔵坊弁慶は、京都で千本の太刀を奪おうと決め、道行く人から奪い九九九本まで集めました。最後の一本となったとき、五条大橋の上で笛を吹きつつ通る牛若丸に出会い、牛若の太刀を奪おうと襲いかかったのですが、欄干を飛び交う身軽な牛若丸にかなわず、平伏しました。その後は最後まで牛若丸の家来として仕えたといいます。この牛若丸が後の義経で、平氏を打ち破るヒーローとなるのはご存知のことでしょう。

伊豆に流されていた源頼朝は、 1180年(治承4年)、平氏打倒の兵を挙げました。頼朝の異母弟の義経も、兄の下に駆けつけてその軍に加わりました。 1185年には瀬戸内海の壇ノ 浦の戦いでついに平氏一門を滅亡させます。だがその輝かしい戦歴は、兄の頼朝と対立する要因となりました。義経は後白河院より直々に戦果を称える勅使を送られ、京都に凱旋します。そして源氏の総領である頼朝の許可を得ないで朝廷から受けた官職に任官したのです。この頼朝の許可なく官位を受けたことと、平氏追討の緒戦で義経が頼朝の命をきかずに独断で動いたこと、壇ノ浦の戦いでは義経の性急な攻撃で三種の神器の一つ宝剣と安徳天皇を海中に沈めてしまったことは、磐石な武家政権を樹立しようとしていた頼朝にとっては極めて重要なことだったのです。頼朝は激怒します。

頼朝は義経が鎌倉に入ることを許可しませんでした。さらに頼朝は義経の所領をことごとく没収し、ついに義経追討の命令を下します。義経の平氏打倒の華々しい活躍は、何の役にも立たなかったばかりか、義経を自滅への道へとたどらせることになったのです。義経も後白河院から頼朝追討の院宣を受けて挙兵するが、賛同する仲間は少なく惨敗。藤原秀衡を頼って奥州の平泉に逃げ延びます。しかし、度々の頼朝の義経征伐の命に屈した藤原泰衛に襲撃されて1189年(文治5年)、妻と子女とともに自害しました。

義経が幼少時代、修行を積んだ鞍馬寺は、現在も京都の北に位置しており、標高570メートルの鞍馬山の南斜面に建ちます。京都市内から鞍馬寺に行くには、叡山電鉄の出町柳駅から終点の鞍馬駅まで約30分乗り、下車すると駅の目の前が鞍馬寺です。仁王門をくぐると、由岐神社が出迎えてくれます。そこから本殿金堂まで約30分の上り坂が続きますが、坂を上るなど激しい運動が難しい方はケープルカーがオススメです。約2分で本殿に到着しますよ。広大な境内は急峻な山道で、太い木の根が露出する「木の根道」、多宝塔、毘沙門堂、魔王奥の院、鬼一法眼社、義経の修行場など見どころが数多くあり、境内をすべて巡るには約2時間かかります。鞍馬寺で、義経をしのびながら自然を満喫するのはいかがでしょうか。